開襟シャツ&昭和エッセイ シュガ・プラム・フェアリ  
 
 エッセイ
  当サイトでは気ままに60年代以降の昭和の思い出をエッセイとして綴っています。記憶違いや思い込
 み、うろ覚えで書いたものもあります。ご理解いただいたうえ、お読みいただければと思います。また、
 このような性質のエッセイですので、記述に誤り等ございましたらBBSでご指摘いただけると幸いです。
  我が心の沖縄  ’70s
沖縄 三線  私が初めて沖縄を訪れたのは'75年、沖縄海洋博の時だった。ちょうど大学に上がった年だ。'72年に返還されたばかりで、当時はまだ車が右側通行で、バスの出入り口も右側。バスに乗っていてなんとなく怖かった。
 勝手に想像していたエキゾティックな南の島に初めて実際に行ってみて、私はいっぺんにその独特の文化の虜になってしまった。もちろんそこには悲しい歴史もあり、単に美しいリゾート地として捉えてはいけないという想いも、改
めて実感させられたきっかけにもなった。
 考えてみれば沖縄は亜熱帯にあるわけで当たり前なのだが、とにかく気候がまったく違うし、街のたたずまいも家並みも、見たことのないもので、とても魅力的だった。そして何より惹きつけられたのが沖縄の音楽だった。
 それ以来、私は仕事での出張を含めると30回ほど訪沖した。竹中労氏が50回行ったというから、それには遠く及ばないものの、沖縄はいつも私を呼んでいるのである。こういう風になってしまうと、既に観光地巡りなどということはしなくなり、普通にステイして街に溶け込む、ということになる。今でも那覇空港でレンタカーを借りて、那覇の町、58号線の明治橋あたりまで来ると「帰ってきた〜」といった気分になる。
 沖縄音楽……これはなんと言っても沖縄民謡(島歌)だ。独特の旋律は、一度はまるともう抜け出せない。街を歩いていると、どこかの民家から三線の音が聞こえてくるほど、沖縄の人々の生活は音楽とともにある。私も三線を手に入れて、一時期は一生懸命沖縄民謡に取り組んだものだ。もっとも、民謡を歌いたければ沖縄方言を覚えなければならない。そのために、以前東京千代田区にあった那覇市の事務所に通って「うちなーぐち」を習ったりもした。三線を弾くには工工四(くんくんしー)という楽譜を使うのだが、私はもっぱら「沖縄民謡集」などを聴いて耳コピーをした。最初に弾けるようになったのは「
安里屋ユンタ」だった。
 沖縄の音楽シーンも様々だが、こと民謡系に限れば、嘉手苅(かでかる)林昌(りんしょう)や登川(せい)(じん)といった三線名人や知名(ちな)定繁(ていはん)喜納(きな)(しょう)(えい)、照屋林助といった民謡の作り手・歌い手がいて、そのジュニア世代が沖縄ポップスを作ってきている。'80年前後に知名定男が「バイバイ沖縄」で、
喜納昌吉が「ハイサイおじさん」で本土のマーケットに進出。そして、
80年代後半に照屋林賢のりんけんバンドがデビューして、オキナワン・ポップの基礎ができた。また一方沖縄の中では、知名定男の師匠格でもある作曲家・普久原恒勇が「芭蕉布」をはじめとする沖縄のポップ・ソングを数多く発表していった。
 私はかつての勤務(出版)の関係で、照屋林賢氏と何度かいっしょに仕事をしたことがある。とても気さくな人で、奥様の上原知子さんのお誘いでコンサート後の打ち上げにおじゃましたこともあった。そんな関係もあって、りんけんバンドのCDはよく聴いたし、ライブも見にいった。三線の耳コピーも、林賢作品からだいぶさせてもらった。
 それにしてもウチナンチュ(沖縄人)の音楽好きには驚く。カチャーシーという踊りがあるが、老人までが上手にリズムに乗って踊るのを目の当たりにすると、その文化の深さを思い知らされる。街には民謡酒場があり、気軽に安く民謡のライブを聴きながら飲むことができる(ちょっと入り辛いが、心配ご無用)。実にいい環境だ。食文化も含めて、私にとって沖縄(もちろん石垣島をはじめとする八重山や宮古も訪れたが)は、居心地のいい場所である。
 そんな沖縄をモチーフにデザインされたT-シャツ・雑貨が姉妹店「fairy t」にある。
沖縄がお好きな方は覘いていただければ
 りんけんバンド
↑りんけんバンド本格的東京進出の頃の林賢氏のサイン
幸いである。
AKABANAH
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     ●姉妹店●    Tシャツのfairy t フェアリ・t