開襟シャツ&昭和エッセイ シュガ・プラム・フェアリ  
 
 エッセイ
  当サイトでは気ままに60年代以降の昭和の思い出をエッセイとして綴っています。記憶違いや思い込
 み、うろ覚えで書いたものもあります。ご理解いただいたうえ、お読みいただければと思います。また、
 このような性質のエッセイですので、記述に誤り等ございましたらBBSでご指摘いただけると幸いです。
  日本プロレス  ’60s
 力道山によって日本プロレス協会が設立されたのは1953年だという。私がプロレス中継を見るようになったのは、三菱電機のスポンサーで金曜日の夜8時に「ディズニー・アワー」と一週おきに放送されていた頃で、やはり60年前後。もっとも、当初のお目当てはプロレスではなく、ディズニーの方だった。「シートン動物記」や「ファーブル昆虫記」などは、このディズニーの番組で知ったし、ミッキー・マウスはじ 馬場のチャンピオンベルト
めディズニー・キャラクターとの出会いもこの番組からだった。番組の冒頭にはウォルト・ディズニー氏が登場して、解説をしてくれるのだ。シンデレラ城の周りをティンカーベルが飛び回るオープニングの「楽しいカラーの世界」を白黒テレビで見ていたわけだが、それでも夢がいっぱいの番組で、一週おきの放送が楽しみで、プロレス中継の週はガッカリだった。そもそもプロレスは祖父(祖父はまだ「レスリング」と呼んでいた)や父のお楽しみで、まあ、しかたなくおつき合いで見ていたのだ。ところが、小学校中学年を過ぎると、いつしか楽しみはディズニーからプロレスへと移っていった。
 私のお気に入りはなんといってもジャイアント馬場。力道山ももちろん見ていたが、'63にこの世を去ってしまってからは、日本プロレスを担ったのは豊登でも吉村道明でもなく、馬場であった。ちなみにアントニオ猪木は東京プロレスを旗揚げ後に日プロに出戻ってきたこともあり、台頭してきたのはしばらく経ってからだ。馬場の良さは、エンターテインメント性にあったと思う。大きな身体を利用してダイナミックなプロレスを見せつける。ショーだと言われようが、そんなものは超越した楽しいプロレスだ。今でこそ彼のイメージは動きの鈍さが前面に出されていて、それが浸透しているが、全盛期の馬場はあの身体で俊敏な動きをしていて、強い、不動のインターナショナル・チャンピオンだったのだ。なにしろ32文ロケット砲というドロップキックまでやってのけたのだから。それと、素顔の馬場は、とても温和でアカデミックな人…… そのギャップがまたよかったのだ。

G.馬場とA.猪木  馬場、猪木、回転エビ固めの吉村そして原爆頭突きの大木金太郎の4人が日本プロレス四天王と呼ばれ、一時代を築いた。馬場・猪木のBI砲はインターナショナル・タッグ・チャンピオン、吉村・大木はアジア・タッグのチャンピオンとして、活躍を続けていた。馬場と猪木がタッグ・チームを組んでいただけでもすごい! そして「柔道日本一」の坂口征二が入門して、まさに日プロ黄金時代が訪れた。
 ちょうどこの頃、私も父や祖父、伯父らに試合を見に連れていってもらった。当時の日プロ選手の対戦相手は、L.テーズ、ザ・デストロイヤー、B.サンマルチノ、フリッツ・V.エリック、B.
ブラジル、G.キニスキー、ディック・ザ・ブルーザー、ドリー&テリー・ファンク、H.レイス、ザ・シーク、ミル・マスカラス…… といった一流どころ。馬場はこういった強豪相手に、インターナショナル世界へヴィー級タイトルを防衛し続けていた(ファンク兄弟、レイスやマスカラスは挑戦していない)。今でも印象的なのは、初めて馬場を見た時の驚きである。試合前、街を歩いていたのに出くわしたのだが、とにかくデカかった。試合もいろいろ見た。「吸血鬼」フレッド・ブラッシーが噛みつきで真っ赤になった身体のまま、リング・サイドまできて客に凄んでいた時は肝を冷やしたし、エリックの鉄の爪が馬場のこめかみに食い込んで、本当に出血するのを見てぶっ飛んだこともあった。
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